ダイヤモンドは永遠の輝き。そう聞いて、すぐに「デビアス」の名を思い浮かべる中高年層は多いのではないでしょうか。ダイヤモンド原石の採掘から流通、販売までを一手に引き受ける世界的な大企業であり、「婚約指輪は給料の3カ月分」という“名コピー”を世に広めた仕掛け人です。
今でこそ、ダイヤモンド市場におけるデビアスのシェアは3割にとどまりますが、2000年以前は7~8割を占め、独占状態にありました。それゆえに、長年にわたって「ダイヤモンド価格を不当に釣り上げている」といった批判が絶えなかったのです。
しかし、それは実情を知らないがゆえの大いなる誤解です。もちろん、デビアスにも「罪」はありますが、「功」にいっさい触れることなく「悪者扱い」するのはフェアとは言えません。
デビアスをよく知る数少ない日本人のひとりとして、実体験をもとに、その「功罪」を明らかにしてみたいと思います。
日本の宝石市場を変えた緻密な戦略
デビアスが日本で活動を始めたのは、1967年のことです。J・ウォルター・トンプソン(JWT)という国際的な広告代理店が、冒頭でふれた「ダイヤモンドは永遠の輝き」というキャッチコピーを掲げ(米N.W. Ayer & Son社が1947年に考案)、宝石業界誌でキャンペーンを開始しました。ターゲットは一般消費者ではなく、われわれ宝石業者です。
その理由は、当時の日本の宝石事情にありました。1960年代、日本で宝石といえば「翡翠」や「金の指輪」が主流。ダイヤモンドはごく一部の富裕層だけが愛好するものであり、そんな日本市場でダイヤモンドを広めるには、まず業者を抱き込むのが先決と考えたのでしょう。GIA(米国宝石学会)留学から帰国したばかりだった私のもとにJWTの担当者が訪ねてきて、一緒に食事をしたのを覚えています。彼らの狙いどおり、われわれ業者の頭には「ダイヤモンドは永遠の輝き」という文言が刷り込まれました。
1970年頃には、「婚約指輪は給料の3カ月分」をコピーとしたキャンペーンを大々的に展開。映画館で流れるCMが若いカップルの心に刺さり、大成功を収めました。
そして1978年、主要業者で構成されるマーケティング組織「カラットクラブ」をアメリカと日本で設立、活動を開始します。その目的は、ダイヤモンド販売に貢献した業者への報奨、市場調査、そして販売戦略の伝達です。
日本では主要業者30社がメンバーに選ばれ、年2回、ロンドンのデビアス本社から役員4~5人が参加して会議が行われました。4回に1度は海外で開催されましたが、旅費はすべてデビアス持ちという厚遇ぶりです。
今にして思えば、「デビアスの手先になれ」という集まりだったのだと思います。日本の需要動向を伝え、本社からの指示を受けて、言われたとおりにダイヤモンドを売っていたわけですから。
とはいえ、それも無理からぬことでした。デビアスという世界的な企業からメンバーに選ばれるのは(そして、スコットランドのグレンイーグルスをはじめ、国内外の高級リゾートに招待されるのは)、それだけ栄誉なことだったのです。
それだけではありません。日本のように「会して議せず」にはならず、徹底して議論させるあたり、さすがはイギリスです。会議のやり方をいろいろと学び、経営に役立てることができました。また、南アフリカの鉱山やナミビアの海洋鉱区を見学する機会もあり、そこで得た知見は間違いなく、宝石商としての貴重な財産となっています。
1978年から1999年までの約20年間に、カラットクラブは全32回開催されました。その間、1982年にはダイヤモンドの婚約指輪の取得率が70%に到達。1990年には、世界の研磨済みダイヤモンドの約3分の1を日本が輸入するまでになりました。つまり、翡翠に代わって、ダイヤモンドが宝石の代名詞になったのです。
なぜデビアスは「支配者の座」を降りたのか
こうした日本市場への影響力が示すように、デビアスの存在感は圧倒的でした。しかし1999年、デビアスは戦略の転換を宣言し、ダイヤモンド市場の支配的地位から退く道を選びます。それまでは世界各地で採掘されたダイヤモンド原石を買い集め、仕分けをしたうえで研磨業者に供給していましたが、仕入先をボツワナ、ナミビア、南アフリカ、カナダのわずか4カ国に絞ったのです。
その理由は3つあります。1つ目は、アメリカの独占禁止法による取り締まりが厳しくなったこと。2つ目は、相次ぐアフリカ諸国の独立で鉱山管理が難しくなったこと。3つ目は、ロシアといった新たな地域でのダイヤモンド産出が増え、デビアスの市場占有率が低下したことです。
2000年代以降、デビアスのCMを見かけなくなった背景には、そうしたダイヤモンド市場を取り巻く環境の劇的な変化があったのでした。
デビアスなくして「大衆化」と「安定化」はなかった
では、デビアスの「功罪」とは何でしょうか。
「功」の1つ目は、ダイヤモンドの「大衆化」です。かつて、富裕層以外には手の出しにくかったダイヤモンドを、より多くの人が楽しめる宝石へと変えたのです(もっとも、これは「罪」と表裏一体でもあるわけですが)。
2つ目は「ダイヤモンド市場の安定化」です。デビアスは、自社鉱山で採れた原石も他の鉱山から買った原石もすべてロンドンに集約し、サイズや品質ごとに仕分けしてロットをつくり、世界各地域の研磨業者に供給していました。
その際、需要や産出量に応じて価格や出荷量を調整していましたが、これを指して「価格を釣り上げていた」と非難するのは、事実誤認です。
ダイヤモンドは天然鉱物であるため、産出するサイズと品質がその時々の需要と一致しないことがあります。需要がないものを研磨すれば価格は下がり、かといって研磨しなければ、研磨業者の商売が成り立ちません。そうした事態に陥るのを避けるために、デビアスは価格と供給量の調整を行ったのです。日本で婚約指輪のキャンペーンを大々的に行ったのも、増えすぎた小粒石の在庫を適正価格で整理するためでした。
親交のあったデビアス幹部、アンドリュー・コクソン氏から直接聞いたところによると、当時デビアスはアフリカに点在する漂砂鉱床(地殻変動や雨水によって流されたダイヤモンド原石が堆積している場所)のそばに買い付け事務所を設置し、あえて高い値段で原石を買い取っていたそうです。
漂砂鉱床は二次鉱床とも呼ばれ、全産出量の3分の1にとどまります。ただ、地中奥深くで母岩ごと採掘する一次鉱床とは異なり、大量の原石が堆積しているケースも多く、ときに産出が激増します。その場合、採掘者が一度にすべてを売りさばこうと安く売ってしまい、それがアントワープを始めとする研磨地に波及して、ダイヤモンド価格が暴落してしまいます。
それを防ぐために、デビアスは現地で高く買い取り、ダイヤモンド市場の安定に努めていました。それは同時に、安く大量に仕入れて高く売ろうと考える不誠実な業者を排除する効果もあったのです。
失われたダイヤモンドの希少性
「功」に光を照らすのはこのくらいにして、次は「罪」です。
デビアスの「罪」、それはあまりにもダイヤモンドを普及させてしまったことにあります。南アフリカでダイヤモンド採掘が始まった19世紀末、ダイヤモンドの総産出量(年間)は100万~200万カラットでしたが、現在では1億1000万~1億2000万カラットにも達します。供給量が桁違いに増えたことで、ダイヤモンドの宝石としての希少性が希薄化してしまったと言わざるを得ません。
また、ダイヤモンドを普及させる手段として、「4C」という不完全な基準をあたかも「美しさの基準」であるかのように喧伝したことも罪深いと考えています。
「4C」はダイヤモンドの品質を等級づけするための「ものさし」で、GIAが考案しました。「色(Color)」「透明度(Clarity)」「カット(Cut)」「重さ(Carat)」の頭文字をとって「4C」と呼ばれています。私の恩師でもあるリチャード・T・リディコート先生が構築したグレーディングシステムですが、現在のように「販促の手段」として使われるのは、決して先生の本意ではないはずです。そのことは、リディコート先生のもとで宝石学を学び、長年に渡って親しくさせていただいた私が断言します。
本来、キズの程度を示すはずの「Clarity」を「透明度」としている点で間違いですし、色や透明度のグレードが高ければ美しいかというと、必ずしもそうではありません。
にもかかわらず、デビアスと組んだ広告代理店が「ダイヤモンドの価値は4Cで決まる」といったキャンペーンを展開し、4Cのパネルまで作って小売店に配ったのです。ダイヤモンドの知識を持たない一般の方に説明するうえで、便利なツールであることは確かでしょう。しかし「Dカラー・IF=最高のダイヤモンド」といった誤った認識を広めてしまったのは、大きな問題だと思います。
昨今、「ラボグロウン・ダイヤモンド(合成ダイヤ)」なるフェイクが市場に広く流通してしまったのも、ダイヤモンドが大衆化したことの副作用でしょう。希少性が皆無なのにもかかわらず、法外な値づけが横行していた時期、デビアスは「Lightbox」というラボグロウン・ダイヤモンドのブランドを立ち上げました。低価格で販売することで、市場価格の是正を図ったのです。
その後、価格が暴落したこともあり、デビアスはこのブランドを畳みましたが、小粒の天然ダイヤモンドの需要がラボグロウンに置き換わるなど、市場への余波はいまなお続いています。
以上が、私の目から見たデビアスの功罪です。デビアスのような強大な“支配者”を失ったダイヤモンド市場はこの先、いったいどうなっていくのでしょうか。